理系大学生の読書記録

暇つぶしで読んだ本を、気の向くままつらつら記録します

トマス・S・クーン『科学革命の構造』(青木薫訳)

 少し前に読んだ青木重幸氏(進化生物学における群淘汰説を否定する強力な根拠を提示したアブラムシの研究者)の著書『兵隊を持ったアブラムシ』の中で紹介されていた本書。青木氏はこの本に衝撃を受け、系統分類学者としての記述的な研究から、問題設定を明確にしたうえでの兵隊アブラムシの研究に乗り出したといいます。私自身も理学部学生としての研究が本格的に始まったということで、研究テーマを詰めていく上で本書が参考になるのではないかと考え、読むことにしました。

 半世紀にわたって様々な論争や影響を世の中に与え続けてきた本書を、一端の大学生がざっと一読したところで意味のある議論を見出せるはずがありません。また、十分な理解を得るために繰り返し本書を読む時間も残念ながら今はありません。そこで、いつの日かこの本を再読するときのために、本書の核心的な用語や考え方をメモ程度に書き連ねていきます。このとき、イアン・ハッキングによって書かれた序説を大いに参考にしました。したがってこのページには一切の哲学的吟味は含まれません。また、以下はメモ書き程度のものですので哲学者が議論に用いるときほどの厳密さは保証されていません。

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○筆者の考える「科学革命の構造」とは

ある限定された科学領域について考える。

その時代にコミュニティーで受け入れられている「パラダイム」があり、科学者はそのパラダイムの下で「通常研究」を進めている。パラダイムに基づく通常研究では現象と結果が一致しないことはしばしばあるが、これを一致させることが通常研究の役割でもある。

ところが、予想を甚だしく裏切る「アノマリー」が生じてき、それが無視できないほど深刻な程度にまで達するとコミュニティーは「危機」と呼ばれる状況に陥る。科学者は現行のパラダイムに一致させるために通常研究を続ける。

現行のパラダイムに染まりきっていない若い科学者などによって新しいパラダイムが持ち込まれることがある。

このパラダイムが危機を生み出しているアノマリーを解決する能力が相対的に高いことを基本として、現行パラダイム信奉者を説得するのに足る根拠(証明によって示すのではなく説得であることに注意、ここには非科学的な側面や審美性も含まれる)が十分にある場合、パラダイムシフトが起こっていく。

ただし、パラダイムの異なる科学者間では解決すべき問題設定が異なり、したがって同じ事象から読みとるデータの種類すら異なるため(これが「通訳不可能性」。上で説得としたのは、異なるパラダイムが支配する世界の間で証明によって古いパラダイムの不適合を理解させるのは難しいから)、長い間古いパラダイムを信仰していた科学者がそれを捨て去ることは容易ではない場合がある。したがって、そういった科学者が引退し、古いパラダイムに染まっていない若い科学者が台頭して新しいものを受け入れるようになることでパラダイムシフトが完了することがしばしばある。

 

○革命の不可視性

学生が学ぶ教科書では、このような科学の進歩の文脈が表現されることはない。科学史についての記載では、単元ごとの著名な科学者を散発的に紹介する。このやり方では、これらの科学者があたかも発見を累積的に科学界に付け加えてきたかのような印象を与えてしまう。この評論の冒頭には、このようにして植え付けられた科学像を変えるのが目的であると明記されている。

 

○用語

パラダイム - 科学者を従来のやり方から離脱させ新たな科学者グループを形成できるくらいには前例のない、また新しい研究者グループに多くの未解決問題を与えるだけの発展性をもつ研究成果。

・科学革命 - パラダイムシフトがおこればそれまで通常研究を支配していた原理が変化することになる。その結果、同じ現象を見ていてもパラダイムシフト前後では得る(パラダイムの下で得ようとする)データそのものが抜本的に異なることになり、この変化のことを革命になぞらえている。

・通常研究 - あるパラダイムの下で科学者が進める研究のこと。クーンはこれを、パラダイムが残したパズルを解くことに例えている。①測定や実験により正確に事実を確定する ②観察結果とパラダイムの理論とを一致させる ③論理の明確化 の3パターンがあるが、これらでは新規のパラダイムを見出すことは目指していない(これらの中でアノマリーが見いだされることはある)。

アノマリー - あるパラダイムの下での予想とは甚だしく異なるような結果。予想に反する現象は多々あるが、それらは早急に解決される。またアノマリーの中でどれが危機につながるような研究価値のあるものになるかの考察は、本書では避けられていた。

・危機 - アノマリーが無視できないほど影響をもち多くの科学者が注目するようになると、通常研究の下で論理の明確化が進められるが、そのうちに何がパラダイムなのか科学者の間で一致をみなくなる。この状態を危機と呼んでいる。

 

村上春樹『アフターダーク』初読の感想

 村上春樹氏の作品(特に長編)には数々の伏線が回収されずに放置されているかのようなものも見受けられ、え?これで終わり?という風に感じることが多いです。話の筋書きとしては理解できないものも多く、特にねじまき鳥なんかは意味わからんすぎてそのまま放置してしまっています(笑)。でも、突き放したようなニヒリズム的文体と、軽快でユーモアあふれる会話、そしてどうやったらそれが思いつくのかというような美しい表現や比喩は大好きで何度も読み返したくなってしまいます。

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 『アフターダーク』は、おそらく東京都内、19歳の少女マリをとりまく一夜が描かれます。三人称視点で、マリを中心とした視点、マリの姉エリを中心とした視点、重要登場人物の白川を中心とした視点、主にこの3つを通して描かれます。各章の最初には時計のイラストがあり、作中の時刻が常に示されながら時系列順に話が展開されます。

 読み終えた感想ですけれども、やっぱり意味不明ではありました(笑)。白川は何者なのか。マリ、エリ、高橋とどのような関係があるのか。アルファヴィルで暴行を起こしたに過ぎず、他視点とは直接には交錯しないのになぜ終盤まで描かれ続けるのか。エリ中心視点に登場する顔のない男は誰なのか、白川なのか、そうだとしてエリとの接点は。エリが別世界に閉じ込められることは何を意味するのか。などなど。これは再読しなければなぁ、という感じですね。

 この作品の世界観は村上作品の中でもかなり好きです。全体を通して一晩の出来事が描かれていて、タイトルの「ダーク」の言葉や、単行本表紙の暗めの色といった現実的物理的条件もあいまって、しっぽりと静かな雰囲気を帯びているように感じました。一日のタスクをきっちり終わらせて風呂にも入り、翌日はなにも予定なし、さあゆっくり夜更かししよう、そんなときに読みたくなるような作品です。

 再読にあたって、顔のない男が誰であるのかに注意しながら読んでみたいと思っています。エリが監禁された部屋が白川のオフィスと一致していること、そこに白川が使っていたものと同じ鉛筆が落ちていたこと。これは "顔のない男=白川" という暗示のようにも見えますが、エリと白川との間に何の接点があるというのでしょうか。作外の設定として白川の手によってエリが暴力的に汚されたのか?これを想起しながら読めというのはいささか乱暴ですし、こうして読み進めたところで実りある解釈が得られるようには思えないです(実際今回、"顔のない男=白川" だと仮定して読みましたが意味がわからなかったです)。そもそも監禁部屋と落ちている鉛筆が白川のものと一致しているというヒントはあからさますぎるような気がしないでもないです。

 それよりも3:42のマリと高橋の会話で触れられる内容に注目して "顔のない男=高橋" の線で読んでみたいと思っています。この会話の内容としては、マリが、高橋とエリがセックスしたのではないかと聞くわけですが、高橋は「理論的にも現実的にも」ありえないと否定します。ですが限られた字数の中でわざとこのような描写を作るということは筆者にもなんらかの意図があるはずで、ここ実際にはセックスしていた、と敢えて解釈してみたいです。そもそもエリが眠りについたのは孤独感、とまでは限定しませんがざっくり言って苦悩に起因するんでしょうし、その眠りのさなかに監禁(この監禁は超現実的であるため、観念的なものなのでしょう)がおこり顔のない男が関与するというのなら、高橋との行為が何らかの形でエリを苦しめた、ということになり、この方がまともな解釈ができそうです。

 話の本筋はあまりに理解できていないのでこれ以上ふれませんが、それ以外で印象的だった高橋の言葉を一つ記して終わりにします。

「とにかくその日を境にして、こう考えるようになった。ひとつ法律をまじめに勉強してみようって。そこには何か、僕の探し求めるべきものがあるのかもしれない。法律を勉強するのは、音楽をやるほど楽しくないかもしれないけど、しょうがない、それが人生だ。それが大人になるということだ」

好きな事ばかりやる怠惰な大学生活を送ってきた僕には結構効きました(笑)。自分の好きなことを思う存分できるのは大学生の特権だと思っていましたが、本当に探し求めていたものは怠惰の先に果たしてにあるのでしょうか。研究に携わりたいと思って入った理学部、堕落した生活を経てその夢がしぼみつつあることを自覚するこの頃ですが、いったい自分は将来何をしたいのか、改めて考えるきっかけになりました。

月の物理・・・伊予原新『月まで三キロ』

 最近は時間的にも気持ち的にもゆっくり本を読む余裕がなかったのですが、ようやく読む気になってきたので、表紙買いして積読していた伊予原さんの短編を。

 伊予原さんの小説は初めて読みましたが、伊予原さん自身が地球惑星科学で博士号をとられているとのことで、理系学生でアカデミアの道も将来の選択肢の一つと考えている自分にとって、前々から気になっている作家さんではありました。『月まで三キロ』の中にもその知識がふんだんに散りばめられていて、ワクワクしながら読んでいました。

 今回も大した感想を書くわけではないんですが、そのような地球惑星の知識で面白かった一つを紹介。これによれば、月は地球に及ぼす潮汐力の反作用として公転が加速し、月にかかる遠心力が増大して公転軌道が少しずつ大きくなっているとのこと。つまり、月は地球から少しずつ遠ざかっているんですね。ここで、逆に太古の時代の月は現在よりももっと大きく見えたらしく、地球誕生当初の40億年以上前では、現在の6倍以上の大きさで見えていたらしいです。へー知らなかった、生物系の学生はこの辺りには弱いので勉強になりました。

 ここで思い出したのが、昔見た宮崎駿監督作品『崖の上のポニョ』のワンシーン。詳細は忘れてしまっているので調べながら書いていますが、生命の水を海水に注いだポニョが強大な力を手に入れるような筋書きの中で、ポニョが地球の重力をも狂わせるシーンがあります。そこで、巨大な月の描写があるんですね(フジモトが月の接近に対して警鐘をならすセリフがあったと思います)。生命の水を注いだことでデボン紀の古生物が復活していることを加味すると、時間軸として太古の時代に戻りつつあると考えられて、地球と月との位置関係も太古の時間軸に合わせるように再配置されたのかなーなんて考えていました。

 まあでも、映画作中に人工衛星が落ちてくるというセリフがあるように、実際にはやはり重量が狂った結果として月が接近したみたいですね。それに、デボン紀が4億年前とすれば、作中であの大きさで月が描かれるのは時間軸移動説では説明がつかないです。結果的には関係なさそうですが、まあこんなこと考えてたという記録がてら。

悲劇の本能・・・三島由紀夫『盗賊』

 「彼は美子の若い葉のように弾力のある掌をそっと握りながら、「もしこの人がいなくなったら」と竦然として幾度か思った。この竦然とする気持の底には、冒険家が死の刹那に感ずるような、不真面目な甘美なあるもの、子供がサーカスや戦争を喜ぶ気持に通うもの、あの原始的な悲劇の本能がひそんでいなかったと誰が言えよう」

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 しっくりきた表現だったのでメモ代わりに投稿します。俗に言う「かわいそうな自分が好き」なタイプの人にもこの辺りに含まれるのでしょうか。

 何かを獲得すると同時に喪失したときの状況を想起する、そして実現した時に絶望と同時に「一点の満足」を覚える。藤村明秀のこの絶妙に矛盾した気質を鋭く表した「悲劇の本能」という言葉を見て、実際にこのような性質を持つ周囲の人(自分自身も含まれるかもしれない)の顔を思い出し、上手いこというなあと感じました。

 それにしてもこの作品、三島のがちがちに固められた論理がふんだんに練り込まれていて面白くありますが、それだけに小難しさが優ってなかなか読破できずにいます。序盤のこのシーンもいったい何度読んだことでしょうか、、笑

新田次郎『孤高の人』初読の感想

 新田次郎氏の長編山岳小説。

 高校時代は山岳部に所属し現在も夏山縦走程度の登山を行う私にとって、山は比較的身近な存在です。しかし同時に、冬山やクライミングなどレベルの高い内容となると、安全性への懸念だけでなく経済的、時間的制約を受けて断念せざるを得ない状況です。山岳小説は、実体験の感覚を与えながらそういった手の届かない領域に誘ってくれるので、好んで読んでいます。

 山岳小説は紀行文チックに、山行記録的に展開されるものが多いですが、井上靖の『氷壁』で見た、山を舞台として繰り広げられる人間同士の関わり、こういった類が読みたく『孤高の人』に逢着しました。帰省のための飛行機搭乗中の暇の遊びとして、だらだら書いていこうと思います。

(前の記事の『愛なき世界』の感想は未だ書き途中ですが、これ以上書くモチベもないので、それはそれとします)

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 先ほど読み終わりまして、なかなか強烈なラストシーンに心が揺さぶられている最中ですので、ここを話の切り口にしてみたいと思います。

 宮村の提案のもと、加藤にとって初めてパーティを組んで臨んだ北鎌尾根縦走。宮村は山行中、異常なまでのプライドを示します。2人の同行者のみならず、目標として深く敬愛していた加藤にまで虚勢を張り、天候や時間に関して無計画で身の程知らずな山行を提案し続けます。この辺りは読んでいて終始イライラしてしまいました、というのも危険性を熟知した加藤の目線で書かれており、その杜撰さと他者を巻き込む傲慢さが目に余ったからです。この傲慢さとは、激しい失恋を経験し絶望に苛まれながらも、質的に遠い存在の加藤を追い続ける宮村の、下界での苦悩の反動としての承認欲求であり、宮村という人間の本質的な弱さ(そしてこれは現代に生きる人にもしばしば見られる弱さ)であることは間違いなく、この小説の構成上なくてはならないものです。しかし、結果としては気持ちよく小説が読めず後味の悪い印象でエンディングを迎えることになったのは残念でした。

 宮村の変貌についてもう少し書きたいです。北鎌尾根にかける宮村の思いは並々ならぬものでした。今回の山行で登山を引退すると決意するほどです。何がこのように至らしめたかというと、前段で少し触れた、園子への失恋が大きく関わっています。

「(園子のことを)忘れるためにはそれしか方法がなかったのです」

会社を辞めてまで登山に没頭する理由。加藤の生き様(少なくとも外部からそう見えるような生き様)を模倣していた最初期の登山の原動力に加え、失意の中それを逃避するための手段として山に登るまでになっていたのでした。そんな登山をこれきりで最後にする、つまり園子への思いも(完全に忘れることはできないにせよ)一旦精算して前に踏み出していく。失意に満ちた鬱々とした生活を抜け出すためのケジメとしての北鎌尾根なのです。この山行を何としても成功させなければならない、なぜならそれは前進できないことを意味するから。厳冬期北鎌尾根踏破への強い意志と執着もまた、山行中の無謀で強気で傲慢な人間性の変貌の一因になっていたのだと思います。

 そして、園子と宮村を引き合わせるきっかけを作ったのは、紛れもなく加藤なのでした。

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 飛行機がもうすぐ着陸するようです。主人公の加藤についてほとんど何も書けていないですが、またいつかの機会に書ければと思います。

・・・未完

どうにもならないこと・・・三島由紀夫『新恋愛講座』

 「そして人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけでは、どうにもならないということを学んで、それに絶望して、だめになってしまう人は、人間としても伸びて行けない人だといわなければならない。」

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 いや、本当にそう思いました。

 これまでを思えば、挫折という挫折(もちろん些細な失敗は繰り返してきていますが)を味わってこなかった人生でした。それなりに努力して学業も、そして恋愛も違和感なく乗り越える。そのように生きてきた私にとって、今回の失恋は生まれて初めて物事が思い通りに進まなかった経験だったのかもしれません。

 今回の件で打ちひしがれ、その原因を自分に求めては自己嫌悪に苦しみ、他方面の人間関係、さらには学業や趣味までも投げやりになってきたところで、この一節を読みました。

 他者の気持ちとは、こちらがどう思っていても、どんなに強く思っていても、揺るがぬものは揺るがない。ですが、それはそういうものとして受け入れ(人生自分の思い通りにはいかない、言葉ではわかっていましたが、実際に直面することで初めて実感として理解しました)、絶望の淵に沈むのではなく、人生の糧にして生きていける活力が大切なのだろうと思いました。

恋に恋する・・・三島由紀夫『新恋愛講座』

 「だんだん成長するとともに、われわれの中には、恋愛は決して自分の頭の中だけで考えているものではない、つまり、相手の意思、相手の全精神生活と自分の精神生活とがそこでめぐり合って、ぶつかり合って、相手からとるべきものをとり、自分から与えるべきものを与えなくては恋愛は成り立たないということに思い当たるのです。」

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 失恋の最中、無気力に立ち寄った古本屋で見つけたエッセイ。三島の恋愛観を完全に理解しているわけではないですが、自分自身の価値観と向き合い続けて来た失恋生活を経て、自分以外のそういったことへの視点を知りたく、タイトルを見て購入。

 筆者のいう恋に恋する段階では、自分が恋している人はいつか自分に恋するはずだと考えがちで、これは当人の想定の中だけで進行する、苦しみを知らない幸福な段階であるということです。そして、想定の世界から抜け出し、他者の人生との関わりとして処理することができるようになって初めて「初恋」に至るのです。

 この節を読み、自分の失恋に関して自分の価値観を相手に押し付けていなかったか(自分だけの考えで恋愛を進めていなかったか)を振り返ってみました。...。そして、このように客観視することで、私自身たった今、ようやく恋に恋する段階から抜け出すことができたのかもしれません。