約1年ぶりの更新となります。大学の研究などで比較的忙しく、本を読んでも感想を書き残す気になれていませんでした。このごろは大学の方もひとまずの区切りがつき、重厚な本を読む余裕ができたので、以前から気になっていた本書を読むこととしました。平野啓一郎氏を初めて知ったのは映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』の中でした。三島の影響を受け、その再来と称された平野氏が解説として作中に登場しており、当時三島の小説をよく読んでいた私は平野氏の作品をいつか読みたいと思うようになりました。
---
この本は上下巻にわたる長編で、平凡な家庭をもつ沢野良介がバラバラ遺体で発見される凄惨な事件を中心に話が展開されます。良介の兄でありエリート公務員である沢野崇は容疑者と決めうたれ厳しい取り調べを受けることになりますが、事件前後の崇の行動や心理が、筆者自身の哲学も反映されながら緻密に表現されています。良介の事件に引き続いて全国で同様の事件が相次ぐようになりますが、厳しい状況で生きている人々のデリケートな深層を逆撫でし、人間としての決壊(そして社会からの離脱)に導く「悪魔」の存在が鍵を握ります。
悪魔を称し、社会からの人々の離脱を煽動した篠原勇治はこう語ります。
「多少知恵のある人間は、気が付くものだよ。遺伝と環境の不公平はどうにもならない、と。努力次第で人生は変わる。そんなのは、まったくのデタラメだとね」
不遇な家庭環境で育った過去を持つ篠原の実感です。離脱者の一人となる中学生の北崎友哉をはじめとする、コンプレックスを抱える多くの人々にとって、この言葉は重要性を持って響いたことでしょう。
一方で人々は同時に、たとえ「〈幸福〉となるべき資格を欠いて」いたとしても、「〈幸福〉の帝国に生きることを余儀なくされている」と篠原は言います。このような板挟みの状況下において、殺意のみに幸福を感じるしかなくなった人たちに向けて、
「重要なのは、そう、システムを破壊することだ。システムに障害を齎し、世界を絶望させること!この世界の一切から、法からも、道徳からも、倫理からも、離脱することだ」
と煽り立てます。こうしたロジックで殺人を正当化して良介を殺害し、さらには犯行声明を駆使して日本全国で連鎖的に離脱者が現れることを意図し、システムの破壊を目論んだのでした。
この篠原の言葉の中で、人々が幸福に生きることを強いられているという内容に、私の実体験を重ねて深い共感を覚えました。私は地元の公立小中学校を卒業しましたが、そこでは遺伝的背景や環境条件の異なる生徒が同所的に存在しました。何を幸福と考えるかは生徒一人ひとり違うとは思いますが、勉強ができる、運動ができる、容姿端麗、こういった内容が個人の幸福全体に対して大きな比重を占めがちであることは、おそらく事実でしょう(その証拠に、これらの要素の一つもしくは複数が欠如する生徒はしばしば見下されいじめられもしていました)。
そもそもとして、学校現場それ自体が上記の内容を幸福であると規定し、生徒に植え付けている問題はあると思います。テストの成績順位をつけて通知する、球技大会の場を設け運動できる者が活躍する場を強調する。このような状況では、勉強や運動ができる人が優越感を持ち幸福を掴むことになるのは自然な成り行きです。こうしてつけられた優劣が、幸福の概念を規定し植え付けていくのでしょう。
学校としては、勉強や運動ができると進学や社会に出た後に有利であるため、授業の時間で生徒のその能力を必死に高めさせるのでしょうが、これこそ生徒に幸福の帝国で生きることを強いているのに他なりません。ここで重要なのは、勉強や運動をさせるときに、学校側は個人の遺伝的背景や環境条件を一切考慮しないということです。なぜ考慮しないのか、その答えは簡単で、至らない結果に対する原因のすべてを努力不足に帰するためで、こうして生徒は努力を強いられるわけです、たとえ遺伝的環境的な限界があったとしても。この構図は、篠原のいう「〈幸福〉となるべき資格を欠いていたとしても、〈幸福〉の帝国に生きることを余儀なくされている」という内容によく当てはまります。
遺伝的環境的な限界と、幸福に生きることを強いる学校との板挟みに苦しむ生徒は現実に数多くいると思われます。そのような一人として作中では北崎友哉が描かれています。
そして、遺伝的にも環境的にも恵まれたはずの崇も、結果的には悪魔によって決壊へと導かれていきました。
崇は東大卒のエリート公務員で、容姿もよく恋人が何人もいるという点で、かなり恵まれているといえますが、そうした彼もまた心の闇を抱えていたのです。第二章では、平野氏がたびたび唱える分人主義の観点から、一人を愛しぬくことができない崇が自殺を想像するシーンが描かれます。不安定な精神状態から繰り出される哲学的発言が印象的なこのシーンは、崇を待ち受ける悲痛な結末の伏線となっていたのでしょう。
そんな崇は良介殺害事件後、殺害の犯人としてつるし上げられ、理不尽な取り締まりと社会からの厳しい非難に暴露されます。父は崇の取り調べ中に自殺し、崇を疑ってやまない母は精神に異常をきたすようになります。また、事情聴取の中で良介が惨殺される映像を見た崇は「あれは俺を、本当にメチャクチャにしてしまったよ」と語りました。事件を経て崇の精神は摩耗していったのです。
この小説はいくつかの主題がちりばめられているのですが、凄惨な事件の被害者遺族の「赦し」もその一つであると考えられます。内容がぶれるのでここには深入りしませんが、この「赦し」と、悪魔の言う「遺伝的環境的限界」が崇の決壊を決定づけていったのです。自殺を前にして、崇はこう語ります。
「赦すも何も、もう罪なんて、この世界から存在しなくなっているんだから。あの篠原って男も、しつこいくらい何度も言ってただろ、遺伝と環境だって。(中略)犯罪の由来をどこまでも追及していけばね、憎むべき犯罪者なんて神話は、あっさり解体されてしまうよ」
篠原の哲学に傾倒し、被害者遺族としての感情を処理しきれなくなった崇。取り調べに有利になるように手を尽くした友人の行動をも遺伝と環境の帰結だと割り切ってしまうほどの盲信は、精神状態が限界を迎えた結果だったのでしょうか。この後、稲毛駅のホームに身を投げて自死に至ります。
---
今回の記事は悪魔の言説と崇の決壊を中心に書いてきましたが、本作では、良介の妻佳枝や母和子、加害者の北崎友哉やその両親など、様々な登場人物の視点から物語が描かれています。長編小説なだけあり、彼らの心情の変化が行動とともに重厚に詳述されており、その分だけ主題や哲学がふんだんにちりばめられています。読破するのには体力を要しましたが、まだまだ読み切れてない部分は多いので、時間をみつけて再読したいと思っています。