新田次郎『孤高の人』初読の感想

 新田次郎氏の長編山岳小説。

 高校時代は山岳部に所属し現在も夏山縦走程度の登山を行う私にとって、山は比較的身近な存在です。しかし同時に、冬山やクライミングなどレベルの高い内容となると、安全性への懸念だけでなく経済的、時間的制約を受けて断念せざるを得ない状況です。山岳小説は、実体験の感覚を与えながらそういった手の届かない領域に誘ってくれるので、好んで読んでいます。

 山岳小説は紀行文チックに、山行記録的に展開されるものが多いですが、井上靖の『氷壁』で見た、山を舞台として繰り広げられる人間同士の関わり、こういった類が読みたく『孤高の人』に逢着しました。帰省のための飛行機搭乗中の暇の遊びとして、だらだら書いていこうと思います。

(前の記事の『愛なき世界』の感想は未だ書き途中ですが、これ以上書くモチベもないので、それはそれとします)

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 先ほど読み終わりまして、なかなか強烈なラストシーンに心が揺さぶられている最中ですので、ここを話の切り口にしてみたいと思います。

 宮村の提案のもと、加藤にとって初めてパーティを組んで臨んだ北鎌尾根縦走。宮村は山行中、異常なまでのプライドを示します。2人の同行者のみならず、目標として深く敬愛していた加藤にまで虚勢を張り、天候や時間に関して無計画で身の程知らずな山行を提案し続けます。この辺りは読んでいて終始イライラしてしまいました、というのも危険性を熟知した加藤の目線で書かれており、その杜撰さと他者を巻き込む傲慢さが目に余ったからです。この傲慢さとは、激しい失恋を経験し絶望に苛まれながらも、質的に遠い存在の加藤を追い続ける宮村の、下界での苦悩の反動としての承認欲求であり、宮村という人間の本質的な弱さ(そしてこれは現代に生きる人にもしばしば見られる弱さ)であることは間違いなく、この小説の構成上なくてはならないものです。しかし、結果としては気持ちよく小説が読めず後味の悪い印象でエンディングを迎えることになったのは残念でした。

 宮村の変貌についてもう少し書きたいです。北鎌尾根にかける宮村の思いは並々ならぬものでした。今回の山行で登山を引退すると決意するほどです。何がこのように至らしめたかというと、前段で少し触れた、園子への失恋が大きく関わっています。

「(園子のことを)忘れるためにはそれしか方法がなかったのです」

会社を辞めてまで登山に没頭する理由。加藤の生き様(少なくとも外部からそう見えるような生き様)を模倣していた最初期の登山の原動力に加え、失意の中それを逃避するための手段として山に登るまでになっていたのでした。そんな登山をこれきりで最後にする、つまり園子への思いも(完全に忘れることはできないにせよ)一旦精算して前に踏み出していく。失意に満ちた鬱々とした生活を抜け出すためのケジメとしての北鎌尾根なのです。この山行を何としても成功させなければならない、なぜならそれは前進できないことを意味するから。厳冬期北鎌尾根踏破への強い意志と執着もまた、山行中の無謀で強気で傲慢な人間性の変貌の一因になっていたのだと思います。

 そして、園子と宮村を引き合わせるきっかけを作ったのは、紛れもなく加藤なのでした。

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 飛行機がもうすぐ着陸するようです。主人公の加藤についてほとんど何も書けていないですが、またいつかの機会に書ければと思います。

・・・未完